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由来からは、少し逸れるかもしれませんが、旧い資料が見つかったり、新たな発見があれば、それを「これも由来」「またも由来」「も一つ由来」、「やはり由来」として追加していきます。

東八王寺

初版表紙

 池田作之進著「東八王寺の歴史(以下、東歴と略記)」(初版=昭和61年は東八王寺公民館編、増補改訂版=平成14年は編者なし)を入手することができました。その詳細は、他の地誌>東八王寺の歴史を参照ください。
 東歴の著述にあたって引用している文献(引用書)は、八王寺あれこれ(以下、あれこれと略記)とほぼ同等であるので、その論述はおおむね互いに違っていません。しかし、非力なあれこれ編集子では明らかにできなかった、あるいは特定できなかった案件を詳らかにしてくれています。そこから、いくつかの知見を得ることができましたので紹介します。一部に推理の根拠を示されないまま、主張されている点(あれこれ編集子からの疑問点)は指摘しておきます。
 なお、東八王寺と八王寺については、あれこれでも、わずかながら、地理と歴史>明治期~に触れています。

東歴は、旗本攝津溝咋長谷川領であった八王寺について、金貸地区を除いた東八王寺地区を指していることを明らかにしています。金貸地区とは、字の金貸を指しているのでしょう(八王寺周辺字限図参照)。
 なお、あれこれでは、廃藩置県と地方制度の混乱の中で、明治9年に、村が再編され、その様子の一部を明らかにしています(飛地の編入と合併参照)。③が金貸地区、②が金貸地区を除いた残りの地区であることは東歴が特定してくれましたが、①については、不明です。

   大内村(備前/溝咋) + ①八王寺村飛地(元岡山県) → 大内村
   ②八王寺村(溝咋) + ③八王寺村飛地(元岡山県) → 八王寺村

●「八王寺」の名の由来については、備中誌を種本としているので、おおむね巷間の説(井上寺の渋江村への移転と寺の鎮守社の引遷)に従っています。「此の並村に山王七社の内、八王子権現を祭れるにより、村の名とせるならずやとあり、現在の三社神社がこれである」のくだりの下線の部分には、疑問が残ります。実は、この説明は備中誌の日吉の条の山王権現の説明の中に出てきますが、下線の記述に該当する説明はありません。また、あれこれの名前の由来でも触れた「天正開発書」の「新開記録付紙」では、「八王寺は新開後井上寺の山王社を引遷し土地の名とせり、山王七社の内、八王寺権現あればなり、今日の山王の祠是なり」と説明されていますが、「山王の祠」がはたして現在の三社神社に相当するのでしょうか?

●「八王子」ではなく、「八王寺と云うは、当時このお宮は神仏混合社で寺の権力が強い時代であったので、八王寺としたのであろうと云われている」との指摘は、根拠に乏しいように思われます。

●「東八王寺と云うは俗称にして、中洲学区内に旧万寿の八王寺と旧中洲の二つの町があり昔から万寿の八王寺地区を本八王寺或いは先八王寺(サキハチオウジ)と呼んでいた」とあります。あれこれでも、サキハチオウジの呼称に触れていますが、東をサキと訓じた可能性を指摘しています。本八王寺については、はじめての見聞です、

●東八王寺の命名は、「昭和33年頃当時の八王寺公民支舘長の山脇弘氏が、地区名をハッキリさせる意味で万寿の八王寺は、東にあるので東八王寺と命名した」と説明されています。あれこれで指摘した東をサキと訓じた可能性はないということです。

●「昭和32=1957年8月、町内中組の山脇弘氏が、町内先住者と協力して、中洲公民館八王寺支館(現東八王寺町内会)を組織され、推されて山脇氏が支館長に就任、・・・」とあります。あれこれでも名前の由来>これも由来で支館長と町内会長を採り上げていますが、支館の組織年が明示されたのは、はじめてです。
 また、巻末の年表には、昭和47=1972年4月に八王寺支館を東八王寺町内会と改称したことが記されています。私どもの町内会の呼称も「八王寺支館」であったはずで、2つの支館がいかなる関係にあったかは不明です。

●素盞鳴神社(あれこれでは、祇園神社として名前の由来で紹介しています)の由緒について、詳述しています。創建は天保年間と明らかにしています、もしそうなら、あれこれが主張した「この社が八王子権現である」可能性はまったくなくなります。



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