トップ 空中写真 名前の由来 地理と歴史 古地図絵図 八王子? 他の地誌 編集後記 キッズ八王寺 町内会
八王寺覚書 東八王寺の歴史

 平成18=2006年に刊行された「八王寺覚書」は、平成18年度の町内会の婦人部長=渡邊八千代氏が発案・企画し、町内会長=西井博氏とともに責任編集した小冊子です。その前年に刊行された「語り継ぐ中洲・中島」の八王寺町限定版という性格を持っているように思います。

 実は、本ホームページは、この覚書に大いに触発されて企画されたものです。アプローチの仕方やまとめ方、表現方法は、本ホームページとはいささか異にするものの、さらに、主張の一部には隔たりが認められるものの、貴重な知的財産としてこのホームページの中に収めておきます。A4版6P(本文4P、表1P、地図1P)+A3版1P(店舗地図)の構成です。


高梁川と共に
 十七世紀前半から高梁川の河口の干拓が急ピッチに進められ酒津・水江・中島を中心とする「中洲」という土地が内陸化していった。
 東高梁川と西高梁川の中間に北から南へ「酒津」「水江」「中島」と連なり、東は「倉敷村」に、西は「浅口郡柳井原村」に、南は「浅口郡河内村」に、北は「都窪郡古地村」に隣していた。高梁川は「三ッ子淵」(現八幡山北西山麓付近)より東と西に分かれ,東は黒田村・酒津村・水江村・ハ王寺村から四十瀬村を通り児島郡浦田村より海にはいり,西は浅口郡柳井原村・都窪郡水江村・浅口郡西原村を通り浅口郡連島村から海に入っていた。
○天正開発(1580年代)
 酒津村の枝村として「ハ王寺」という地名が見られる。
○東高梁川
 現在の福田用水沿いの西側(4組の家並み)が東高梁川の東堤防(土手)で,5・6・7組は東高梁川の河川敷の中であった。  
 
高梁川の大改修(1907~1925年)
 江戸時代の初期から新田開発が盛んに行われ、堤防が構築されるに伴って川床が上昇し、たびたび大洪水を起こして,大きな被害が出るようになった。
 明治40年高梁川改修の議起り河川の改修に着手すると「酒津」「水江」の両村の地勢の大部分は大きく変化し、大正15年の竣工によって現在のような地勢となった。したがって、ハ王寺町内会の4・5・6・7組は昭和年代に入ってから周辺の村々から移り住んだ人々によって出来た町である。
○蚊水橋
 現在の公民館付近から真向かいの水江へ渡るために東高梁川に架かっていた橋。江戸時代は鴨方往来として主要道であった。
 明治26年洪水のため流失し,以後は仮橋となる。
■この橋の近くのハ王寺側には材木屋が2軒あり,高瀬船が荷物を運んできていた。
■大雨が降って大水が出ると橋が流れた。橋が流れそうな状況になると橋をいい加減なところで切って鎖で繋ぐ。橋が流れ出したら船を漕ぎ出して橋の上に載って五軒屋ぐらいまで流し、岸に引っ張り上げて馬車で持って帰っていた。
○国道2号線
 1935(昭和10年)年代半ばまで、国道2号線は西阿知の遍照院から水江を通ってハ王寺橋を経て川西町の山陽本線を渡って倉敷の町へと続いていた。つまり現在八王寺町内の中心部を通るバス通りが国道2号線であった。
付図 高梁川改修地図
昭和20年・30年代のハ王寺は銀座だった?
 東西に走る大通りをはさんでいろいろな店屋が軒を連ね、大抵の日用品は買い揃えることが出来たため、近隣の古水江や船穂から買い物客がやってきていた。
○新開座という大衆演劇場があって,旅芸人による芝居が演じられていた。
○福田用水のハ王寺橋上・下流は子どもたちの恰好の泳ぎ場で夏は終日川遊びに興じる子どもたちでにぎわっていた。ほとんどの子どもが此処で泳ぎを覚えた。後に国体の岡山県水泳代表選手になった子どももいる。
○晒し工場の「晒し場」と呼ばれる広い草原が大通りをはさんで南北にあり、大きい子も小さい子もいっしょになって、それぞれの「晒し場」に基地を作って陣取り合戦をして町中を走り回っていた。
○青年団活動が盛んで、荒神社の春・秋の祭礼には「千歳楽」を担いで他の地域まで出かけたり,盆踊りをしたりしていた。
○夏の夕方になると,各家の軒先には「一畳台」と呼ばれる涼み台が出され,大人も子どもも夕涼みをしていた。
○「和霊様」と呼ばれる夏の祭礼日があり,この日は大通りの店先に砂のミニチュワの箱庭がしつらえられ子どもも大人もこれを見て回って楽しんだ。
昭和20年代からの八王寺町の趨勢概略と町代表者
 八王寺の町は戦前(太平洋戦争)のどかで風情のある主要な街道筋として栄えて未ました。
戦後も、厳しい生活環境の中でその名残りを引き継いで、当時はおよそ300世帯700人の人々が活気ある生活を営んできたと云われています。
 30年代に入ると日本は漸く戦後の立ち直りを見せ、その後は克って誰も経験しことのない急激な技術革新と高度経済成長の時代を迎えることとなったわけです。
 この結果、社会環境は多様化して人の生活株式も大きく変化してきました。
 このような状況の中で、わたくし達の住む町も例外ではなく、今日では周辺の市街化が進みつつあり生活環境も徐々に喧騒の様相を呈レてきました,
 それでも八王寺町は、先人・先輩の方々が英知と努力で築いてきた風土のもとで、現在230戸・500人の皆さん方が協調して、変化に対応した生活環境を築いてきました。これからも通り過ぎた時代の大切な風土風情を失することなく受継いで行かれることを信じます。

付表 昭和27年以降の町内会長名と町内戸数
付図 昭和の初め頃から30年代頃の八王寺
八王寺覚書 東八王寺の歴史


Copyright(C) 2012,2013 八王寺町内会

inserted by FC2 system