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八王寺を中心にした、周辺村の変遷史 を併せて参照ください。

~天正開発

古代
 このあたりは、古代から吉備中国(きびのなかのくに)の窪屋(くほや)郡大市(おおいち)郷です。窪屋郡は、古代からの郡名で、現在の総社市南部、山手、清音、倉敷市の中央部の地域を指しています。『和名抄』では、「久保也(くほや)」と訓じています、「クボ」は「低地」、「ヤ」は「湿地」の意とされており、湿地帯だった様子が窺われます。大市は、八王寺のすぐ北にある大内(おおうち)の転訛とも、その大内も魚市(うおいち)の転訛ともされています(明治22年、安江や四十瀬村などが合併してできた大市村は、この名を借りたとも伝えられています)。八王寺あたりは海中で、酒津や都宇郡(津宇郡)などの港(津は、港を表わしていたようです)の位置が海岸線だったようです。

天平~中世の頃
 「霊亀元年(715年)~天平十一年(735年)には現在の大内、日吉、八王寺あたりまでが陸地となっており、又それ以降も陸地化は南下しており、1200年代後半から1300年代前半あたりに、概ね現在のJR山陽本線より北方については、陸地化が完了していた」と、堀南の歴史を著した郷土史家は指摘しています(http://www5b.biglobe.ne.jp/~oni/home-page/60-ashitaka-tiiki/horinan-rekishi.html)。

天正開発の頃
 1584~1589(天正12~17)年、酒津から鶴形山を通って向山まで汐止堤防である宇喜多堤が作られました。宇喜多堤には、二日市から早島町多聞ヶ鼻までのもう1つのルートがあります。この2つの堤防により、倉敷の北東部が干拓できることになります。
 この堤防は、しばしば氾濫する高梁川から北東部を守ることになります。逆に、その氾濫は、南西部を沖積し、干潟化させ、川筋を西に移動させていきます。右図の赤丸が、八王寺の位置ですが、早晩、干潟になることは予想できます。
●「元和4年(1618)是より先、酒津川二俣に流れしが、1つは今の水江川、又1つは東に流れて地名に残れり」(天正開発書新開記録付紙)、
●慶長(1596~1615)末年、倉敷川を酒津で締切り、東高梁川の左岸に築いた新堤と日吉庄村(ひえのしょう、現在の日吉町)との間にできた新田の東半分が当村(=八王寺村)であると思われる」(平凡社-岡山県の地名)
●東松山川の八王子から浦田の黒山(大高街道を南へ五軒屋の坂を登った地点)までの間に堤防を築造し干拓事業が行われています。堤防の築造時期を特定する史料が見つかっていませんが、高松城水攻後の1585年~1617年の間に着工され、干拓事業が完了した1631年までには完成していたものと思われます。(http://www5b.biglobe.ne.jp/~oni/home-page/60-ashitaka-tiiki/horinan-rekishi.html)

から、「1620(元和6)年の頃に八王寺が開発された」という史誌の説明は十分頷けます。

 ただ、八王寺という命名の起源である八王子(寺)権現の引遷の時期1585(天正13)年と、上に述べた開発の時期に大きく隔たりがあることの説明が不足します。まだまだ未開発の名もない土地に「八王子(寺)権現の引遷」が先行し、30年以上の後に開発されて、その名を採用したということでしょうか?


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