トップ 空中写真 名前の由来 地理と歴史 古地図絵図 八王子? 他の地誌 編集後記 キッズ八王寺 町内会
名前の由来 さらに由来 これも由来 またも由来 も一つ由来 やはり由来

蟇股(蛙股、かえるまた)
 八王寺と東八王寺の接点の交差点を、こう呼んでいたようです。蛙が股を広げたような形に似ているからでしょう、社寺建築で使われる輪郭が山形をした部材の名でもあります。 交差点から北西に延びる道路は、東高梁川廃川地への倉敷絹織(株)の立地に併せて敷設されたようです。昭和3年以降の建設のはずです。この命名もそんなに旧くはない?

 2014/1/15発刊の杉原尚示著「郷土史はなぜおもしろいか-地域づくりに繋がる新たな郷土史-」(文庫版、文芸社)を読みました。杉原氏は、倉敷市帯江や豊洲、中帯江、亀山、帯高の歴史を仔細に調査し、その成果を自身のホームページで公開し、さらに書籍として出版されています。この「八王寺あれこれ」を編集するにあたっても、氏のホームページを何かと参考にさせていただいています。その中に倉敷市中帯江の「きゃーるまた(蛙又)」が出てきます(前著P156、ホームページではhttp://hanaara.web.fc2.com/toyosu/kimura.htm )。

”きゃーるまた”(蛙又)とはまた懐かしい地名が出てきたものです。現中帯江の県道が六間川と合流した地点をそう言ったな・・・と頭の隅で反復しながらのインタビューでした。

 「八王寺の蟇股」も「中帯江のきゃーるまた」も、直線の道路から反れるようにゆるい角度で分岐した交差点の呼称のようです。


ケイト川
 蟇股の交差点をほぼ南北に流れる小さな農業用水をケイト川と呼んでいます。 その流路を赤線で描いています。酒津公園のすぐ南の備前用水から取水し、酒津と大内、酒津と八王寺町のそれぞれの境を流れ、蟇股を交差して、さらに東八王寺町内と八王寺町内との境、続いて安江との境を流れ、最後に備前用水と合流します。酒津村(のちに中洲村→中洲町)、八王寺村(富久村→万寿村)、安江村(太市村→大高村)の境界だった川です。 今も、東八王寺と八王寺の境です。大内では「どんがめ川」と呼んでいるようです。スッポンがよく獲れたようすを伝えています。「ケイト」という呼名の由来は、図に示したように、鶏の頭、ケイトウだったようです(図は、分かりやすいように、南が上になっていますなるよう回転します)。
八王寺荒神宮のところに掲げた天保(1830-1844年)のころの絵図に、ケイト川が描かれています。200年前から灌漑用水だったのでしょう、ルートは変わっていないようです。

備前用水
 高梁川の大改修によって、備前樋は廃止されましたが、その導水路である備前用水(備前川とも呼ばれています)はそのままです。 「備前」の名の由来は、江戸期元禄の頃、白楽市村などを備前岡山藩が開墾し、その農耕地への灌漑用水だったことによるようです。備中誌には、酒津の条に3本の用水川の1つとして「同八ヶ郷の樋の、丁南より大河を引入れ備前領分の地を養ふ」との記述があります。また、「備前樋は昔は安江に在享保の頃にや今の所に居る替しという」とあります。「今の所」とは、八ヶ郷の樋の直ぐ南のことでしょう。


南部用水
 高梁川の大改修によって、東西高梁川のさまざまな場所に設けられていた11の取水樋(12と数えている資料もあります)は、酒津配水地に集約されました。南部用水は、東高梁川の右岸の龍の口樋(連島、龍の口用水)、左岸の福田古新田樋(福田、福田古新田用水)、同じく左岸の福田樋(北畝、福田新田用水)の3つの取水樋・用水を集約したものです。水路は、酒津より福井あたりまでは廃川地の東側を新たに掘削し、3つの用水の水路に繋げたようです。

八間川用水
 もう1つの川(?)、八間川用水がありました。昭和3年、県は、東高梁川廃川地の中央部に農耕地への灌漑を目的に、計画川幅25m、水島まで総延長4kmの「廃川地主要幹線水路」を設けます。水江と八王寺との境界にあった用水です。 一方、廃川地の北端に立地した倉敷絹織が、昭和10年、土管を八間川東側土手の中に埋けて工場廃水を水島港に流すようになります。使用目的の異なる2つの水路ができたことになります。
 八間川を調査研究したみずしま財団は、清流だった様子を下記のように伝えています。
●昭和14年頃 清流という言葉がふさわしい冷たく澄んだ水が流れ、岸の土手には月見草・ツユクサなど四季折々の草花・夏の夜はホタルが飛び交うなど、子ども達の遊ぶ姿がみられました。また炊事や洗濯などがおこなわれるなど日常生活はもとより、農業の上でも重要な役割を担っていました。
●昭和17年 三菱航空誘致による廃川地強制買収、それに伴って(水島地区の)八間川沿いに何千戸もの社員住宅が建ち並び、利用目的も変わってしまいました。
●昭和20年頃までは、まだ流れも澄み、子ども達は小魚をおって水遊びに興ずることができました。

 その後は、生活用水の排水路として使われ、八王寺・水江地内でもドブ川化していきます。そんな中、昭和35年 クラレの排水溝が、倉敷市特別下水道整備事業によって「倉敷市特別都市下水路」となります。2本の水路が一本化されたのです。下水路の起点は、アカシア電化前です。ドブ川化した八間川は、市営球場の南まで埋められ、この下水路に生活排水を流すようになりました。つまり、市営球場の南までは暗渠になったわけです。それ以南は、開渠のままで、そのまま浦田まで流れ、そこで種松山からの農業用水を別の水路に流し、1つの川に壁を隔てて2つの流れがある形になっています。ところで、その下水路の水源は、どこにあるのでしょう、なんと酒津公園の中にありました。地下水=高梁川の伏流水をポンプで吸い上げているのです。

蛟水(みつち)橋
 鴨方往来は、東高梁川に北東からぶつかったあと、ほぼ真西に向きを変えて堤を越え、河川敷に下ります。そのまま河川敷を真西に直進して本流のある水江側にいたりますが、そこに架った橋が蛟水(みつち)橋です。江戸期には、渡しだったことも、石橋だったこともあるようです(寛永国絵図に舟渡75尺とあります、130mぐらいの川幅でしょうか、ちなみに東西の堤の距離は280m前後です)。明治7年頃、児島徳平治が私財を投じて架けた船橋(詳細は分かりませんが、川面に何艘かの船を浮かべて、板を渡した構造だったと推察します)が起源です。中洲町誌の児島徳平治の項に「後の蛟水橋の濫觴なり」とあるところから、命名は後年だったようです。明治26年の洪水で流失し、その後は仮橋でした。その仮橋も、「洪水時には、橋脚を残して橋げたを故意に流して、後から回収する」流れ橋だったとの回想を聞いています(「語り継ぐ中洲・中島」に収録されている中洲地方の俚諺「やれきょうとや水江のあっさん」にその様子が紹介されています)。日本書紀や前賢故実などに残されている故事(川嶋河=高梁川に棲む、人に危害を加えるおおみつちの退治譚)にちなんだ命名のようです(「語り継ぐ中洲・中島」に納められている「ヒョウタンと大ミツチ」の民話は、この退治譚をベースにしています)。なお、現在はイオンモール倉敷の東、県道60号倉敷笠岡線が南部用水を渡る橋に、その名をとどめています。
 日本書紀巻11の原文
「是歲、於吉備中國川嶋河派、有大虬令苦人。時路人觸其處而行、必被其毒、以多死亡。於是、笠臣祖縣守、爲人勇捍而强力。臨派淵、以三全瓠投水曰、汝屢吐毒、令苦路人。餘殺汝虬。汝沈是瓠、則餘避之。不能沈者、仍斬汝身。時水虬化鹿、以引入瓠。瓠不沈。卽舉劒入水斬虬。更求虬之黨類。乃諸虬族、滿淵底之岫穴。悉斬之。河水變血。故號其水、曰縣守淵也。」
 口語訳
「同年。吉備中国(きびのなかのくに、備中国)の川嶋河(かわしまがわ、河部川か)分岐点に水霊(みつち)がいて人々を苦しめていた。そこを通った多くの人が毒によって死んだ。笠臣(かさのおみ)の祖先の県守(あがたもり)が、その淵(ふち)に出かけて三つの瓢(ひさご、ひょうたん)を水に投げ入れ、「おまえは毒で通る人々を苦しめた。私がおまえを殺そう。この瓢を沈めることができれば私が逃げよう。沈められなければ私がおまえを斬ろう」と語った。水霊は鹿に化けて瓢を沈めようとしたができなかった。県守は水に入って剣で水霊を斬り、さらにうじゃうじゃいた仲間を斬った。水が血に染まった。それでそこを県守淵(あがたもりのふち)という。」
 倉敷考古館の「倉の内外よもやばなし」という随筆(125)タイムトラベルの停車駅(後編)虬(みずち)の里に、日本書紀のこの話がとりあげられています。この中では、川嶋河は、当時の高梁川の分流の足守川だとされています。


八王寺荒神宮
 1863年(文久3年)5月の建立。現在は、酒津にある「八幡神社」の飛地境内神社(境外神社)として、神社庁に登録されています。「地理と歴史」のページにも触れましたが、八王寺地番でなく酒津地番(2740番地)に、しかも鴨方往来の街道沿いにあります。なぜか? 実は、「八王寺あれこれ」を開設しようとする動機になったフシギです。境内に奉献されている石灯籠には、神社建立より7年前の安政3年(1856)と刻まれています。
 祭神は、大国主命(おおくにぬしのみこと)、経津主命(ふつぬしのみこと)、少彦名命(すくなひこなのみこと)です。さらに、境内には、天満宮、八幡宮の2つの境内神社があります。もう1つ、地神塔があります、五角の石柱で、正面に天照太神(あまてらすおおみかみ」、右周りに大己貴命(おおなむちのみこと)、埴山姫命(はにやまひめのみこと)、倉稲魂命(うかのみたまのみこと)、少彦名命(すくなひこなのみこと)の5つの農業守護神の名が刻まれています。
 天保(1830-1844年)のころの絵図に、備前用水と鴨方往来が交差するすぐ北に神社地のような絵が描かれています。建立の20年以上も前に、祠(ほこら)はすでにあったのかもしれません。


北向地蔵尊
 墓地の中にありますので、墓地の入口などにしばしば祀られている六地蔵尊とまちがわれますが、単体の地蔵尊のようです。それは、東高梁川の堤の上にあったものを移設してきたと伝えられています。
 上の絵図をもう1度みてください。今の八王寺橋の南あたりに何かが描かれています。拡大してみると、お堂のマークが見えます。地蔵菩薩は、さまざまな民間伝承に支えられて子どもの守り神になりましたが、一方で、村への厄災の侵入防止のために村界にまつられた路傍の道祖神と習合したとも伝えられています。このお堂は、南と西からの異端の侵入をガードしていたのかも知れません。

富久(とみひさ)村
 明治10年、八王寺村(=東八王寺)、日吉庄村、大内村、川入村の4村が合併して、富久村を作ります。明治22年には、万寿村に吸収合併されて、富久村の名は消えます。当時の地図には、富久と八王寺の両方の名が残っています(富久「八王寺」などと表記されています)。富久の名を探して、地内を巡ったところ、4つの痕跡を発見しました。
●人絹道路(クラレ酒津工場とクラボウ倉敷工場を結んだ道路)と鴨方往来が伯備線と交わる踏切を富久踏切と呼びます(大内と川入の境)
●富久踏切の直ぐ南西にある食品の卸商の富久屋です。もとは、鋳造工場だったところですが、建屋を再利用しています。ただ、読みは「ふくや」のようです(大内313-4)。
●旧クラボウ倉敷工場(旧チボリ公園、現三井アウトレットパーク倉敷)の南西の角に、地元の名を採った「富久」という和菓子屋があります(日吉町491)。
●東八王寺町内にある祇園神社の境内の石灯籠に、それを明治16年に奉献した商社中の世話役が刻銘されています。「倉鋪村戎町 川上岩吉 富久村 高橋安冶郎」とあります。


鴨方往来と国道2号線
 鴨方往来は、八王寺村を北東から南西に横切る道路の古称です、登記には、「大道」という名で現れます。東高梁川にぶつかってほぼ真西に高梁川を渡り、水江の堤を川に沿って下り、延長線上を南西に進み西阿知に至ります。北東へは、ほぼ直進して、もずが鼻で山陽本線を越えます。備前池田藩により、岡山城下から鴨方藩までの往来として整備されたものです。6官道の1つです。整備される前には、備中浜街道と呼ばれていたようです。明治から大正にかけて、川辺や矢掛を通る山陽道が国道でしたが、1929年(昭和4)年、鴨方往来を踏襲するルートに経路変更されます。しかし、鴨方往来には未改良区間が多かったため、国道とは名ばかりで、県道に降格した山陽道が交通を担ったようです。戦中の混乱も重なって、変更後のルートが地図にはっきり示されるようになるのは戦後になってからです。
 岡山国道事務所の「岡山国道のあゆみ」作成の内部資料には、「昭和6年に岡山倉敷間の工事を着手、昭和9年に中庄跨線橋~倉敷市昭和町間の工事を施工し、戦局あやしい中昭和17年~昭和22年、倉敷駅前~霞橋間を施工した」とありました。「踏襲するルート」とは、旧2号線のことで、倉敷地内では、鴨方往来と重なってはいないようです。今見たように工事は遅々と進んでいない様子です。昭和10年の倉敷日報の地図には、旧2号線は描かれていません。
 「語り継ぐ中洲・中島」や「八王寺覚書」には、「1935(昭和10)年半ばまで、鴨方街道が国道2号線だった、さらに、蟇股から西中学校の脇を通って川西町に抜ける道路が国道2号線だった」との記述が見えますが、はっきりしません。遅々と進まない国道工事に対して、それを代替する道路が八王寺地内を通り抜ける鴨方往来だった可能性はあります。

八王寺踏切
 八王寺地内に踏切? 蟇股から西中学校の脇を通って川西町に向かう道路が伯備線と交わる踏切をこう呼びます。倉敷の街中から、八王寺に向かう道路の踏切の意と思います。倉敷駅寄りに、もう1つ、石見町に清音街道踏切がありますが、清音に向う街道の踏切の意でしょう、同様な意図の命名ということです。伯備線は、倉敷駅 - 宍粟駅(現在の豪渓駅)間の伯備南線として1925(大正14)年に開業しています。大正11年の地図には、建設中(だと思います)の伯備南線を横切って、八王寺へ向う道路がはっきりと描かれています。
 実は、この地図を見ると、「鴨方往来と国道2号線」で、はっきりしないと指摘した国道2号線が、八王寺へ向う道路のような気がしてきます。ただ、記述とは、15年ほど前ですが・・・。
 2013年夏になって、気づいたのですが、踏切の看板が新調されていました。「八王子踏切」ときっちりまちがっています(それとも意識的に変更されています?)。ついでに、ふりがなの「はちおおじ」は「はちおうじ」が正しいと思うのですが・・・。もとより、発音は「はちおーじ」です。


われいさま(和霊様)
 八王寺覚書に「和霊様と呼ばれる夏の祭礼日があり,この日は大通りの店先に砂のミニチュワの箱庭がしつらえられ子どもも大人もこれを見て回って楽しんだ」とあります。江戸の初期、愛媛県の宇和島で暗殺された家老の霊を和ませるために建立した和霊神社の分霊を祀る行事のようです。その信仰は、瀬戸内一円に広がっています。倉敷市内でも和霊神社は6,7社あります。旧暦の6月23日か、新暦の7月23日に行われていたようです、倉敷中央(旧新川町)の和霊神社を紹介した記事の中に、「昭和30年代前半まではタライや魚を詰める木箱の中に砂を入れ、子ども達が素焼きのおもちゃを砂の上に置いて箱庭を作るのが慣わしでした」との説明を見つけました。

高梁川改修工事
 「地理と歴史」江戸期のページにも示したように、高梁川は暴れ川だったようです。上の蛟水(みつち)橋の縁起からも想像できます。古代から、たたら製鉄に使う砂鉄の採取が行わたことが主因で、洪水は頻繁でした。逆に、それが、倉敷平野の沖積を大いに促しもしました。江戸期もさることながら、明治になっても、1869 年、1880 年、1886年、1892 年、1893 年、1899 年と洪水を惹起しています。県や国への陳情や働きかけが実って、1911(明治44)年、内務省の直轄工事として、工事が着手されました。当時、改修計画は、5案ありました。

1.東西高梁川とも残して改修する
2.東高梁川を締め切って西高梁川だけにする
3.西高梁川を締め切って東高梁川だけにする
4.分流点より下流の山間狭隘部は旧来のままとし、その狭隘部分を通った後で西高梁川を東高梁川に合流させる
5.分流点より下流の山間狭隘部は旧来のままとし、その狭隘部分を通った後で東高梁川を西高梁川に合流させる

 そして、第5案が採用され、具体的には、酒津地内で東高梁川を締め切り、新水路を設けて西原地内で西高梁川に合流させることになったわけです。そのようすは、計画図にあります。  改修工事に引き続き、高梁川東西用水組合が設立され、酒津配水池に取水樋を統一して配水する計画・工事が着手されます。その中に、南部用水の掘削や八王寺橋の架橋が含まれます。大正14年に完工します。

名前の由来 さらに由来 これも由来 またも由来 も一つ由来 やはり由来

Copyright(C) 2012,2013 八王寺町内会

inserted by FC2 system