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由来からは、少し逸れるかもしれませんが、旧い資料が見つかったり、新たな発見があれば、それを「これも由来」として追加していきます。

水江(→中洲)尋常高等小学校、万寿尋常小学校、大高尋常(高等)小学校
 「八王寺地区は、小学校に入学するのも3校にまたがっていました」との古老の思い出があります。明治10年に、東八王寺地域の八王寺が富久村に合併してから、蟇股交差点が、酒津村、富久村、大市村の接点になります(それ以前の村界は分かりません)。そののち、明治の大合併により、中洲村、万寿村、大高村に村名は変わりますが、この接点は、そのままでした。この村界は、学区の区分けになり、先の思い出につながります。明治期、大正期にかけて、たびたび教育制度は変更され、校名もそのたびに変わります。ちなみに、中洲小学校は、明治9年水江小学、明治14年水江小学校、明治20年尋常水江小学校、明治23年尋常中洲小学校、明治26年水江尋常小学校、明治40年水江尋常高等小学校、明治41年再び水江尋常小学校、明治45年これも再び水江尋常高等小学校といった具合です。その後、酒津尋常小学校と中島尋常小学校を統合して、大正13年に標記の中洲尋常高等小学校になります。そして、昭和16年中洲国民学校、戦後昭和22年中洲小学校と歩みます。下にあげた通知簿は、明治44年水江尋常小学校と45年水江尋常高等小学校のもので、鴨方街道の南、大高村に住居があった方が水江の小学校に通っていたときのものです(尋常科4年・5年)



せんざいらく(せんだいろく、千歳楽、千載楽)
   荒神宮の秋祭りに繰り出す太鼓台は千歳楽(せんざいらく)と呼ばれていました。少し訛って「せんだいろく」と呼んでいた人もいたようです。写真に見られるように、八王寺の千歳楽は、太鼓台の上に大きな座布団を3枚載せた形で2本の担ぎ棒を若者約20人が担ぎ、町内を練り歩いていました。担ぎ手が少なくなり、1961(昭和36)年を最後に廃止されました。
 「五万石でも、岡崎様は、城の下まで舟が着く」という千歳楽の唄が耳に残っています。Youtubeには、千歳楽の唄として、近隣の旧い音源がいくつかアップされていますが、記憶にある節回しとは違うようです(*1)。水江では、伊勢音頭が謡われています。
 この千歳楽は、岡山県の南西部に分布しています。 その由来は、江戸期、謡曲「千歳楽」が現在の倉敷市連島で創作され流行し、太鼓台を担ぐ際、謡曲「千歳楽」を唄うことがこの界隈で普遍化し太鼓台自体を「千歳楽」と呼ぶようになったとする説が有力とされています。この謡曲「千歳楽」がどんな曲だったのかについては分かっていません。大相撲や芝居などの興行の最終日を千秋楽と呼びますが、最終日に「千秋楽」という雅楽曲を演奏していた名残りと言われています。その千秋楽を千歳楽ともいうようです。千秋、千歳(万歳)、千載は、いずれも、永い年月を意味し、永く生き続け栄えることを願った言葉です。
(*1)ちくわ笛奏者で、民謡研究家でもある住宅正人氏が、2012年秋のNHK綜合TVのスリーストーリーズという番組(NHK岡山制作)で、倉敷市万寿地区の廃れた千歳楽の唄を復活させたことが放送されていました。

時報サイレン、登校促進曲
 倉敷絹織(1926年~)→倉敷レーヨン(1949年~)→クラレ(1970年~)の倉敷工場が流していた始業・終業サイレン、人絹*)のサイレンです。7:30、8:00、12:00、12:45、16:00、16:15(30/45)など予鈴も含めて、近隣の住人は、一日中耳にしていたことになります。イオン倉敷ショッピングセンターが出店した1999(平成11)年の半ばぐらいまで流していたようです(清水良久氏より情報提供)。
 昭和32~34年(1957~59年)に、ラジオドラマ「赤胴鈴之助」が大流行しました。小学生の登校を促す目的だったように思いますが、町内放送で、その主題歌「赤胴鈴之助の歌」を流していました。「剣をとっては 日本一に/夢は大きな 少年剣士/親はいないが 元気な笑顔/弱い人には 味方する/おう! がんばれ 頼むぞ/ぼくらの仲間 赤胴鈴之助」
*)人造絹糸の略、正式には、会社名や工場名としては使われなかったようです、人絹道路などの命名に残っています。

支館長と町内会長
 戦後、戦争遂行に加担したとして、GHQによりその活動が禁止されていた町内会が、1952(昭和27)年再開されます。そのころの町内会長を支館長と呼んでいました。中洲学区に中洲公民館が組織され、中洲小学校長が公民館長を務めていました。各町内はその傘下で支館という名で活動していたようです。八王寺は八王寺支館、水江は水江支館という具合です。その長が支館長というわけです。
 昭和31年の(中洲)学区民体育大会の賞状が八王寺公民館の大広間の南西に掲げられていますが、そこには、「優勝旗一旈一等 八王寺支館」と書かれています。賞状の発行主は、中洲公民館長 大熊友平(S31当時の中洲小学校長)となっています。この賞状を掲げて撮った優勝記念写真です。
 ところで、何時から支館という呼称があったのか、何時ごろ廃されたのか? 公民館に掲げられているいくつかの賞状から推測してみましょう。昭和31年は八王寺支館、昭和44/45/49/51/60年は八王寺町内会、昭和47/53年は八王寺公民館と記されています。昭和45/49/51/53の賞状の発行主は、中洲学区公民館連絡協議会長となっています。公民館-支館が公民館連絡協議会-公民館に変化していった様子が見てとれます。組織としての八王寺公民館は八王寺町内会と同義で使われていたということです。支館という呼び名は、昭和40年代の半ばまでには、すでに廃れていたように思います。
 水島学区には、現在も、公民支館協議会と名付けている町内会連合会の組織があります(昭和29年に、町内会連合会として発足し、後に改名したようです)。

自転車屋さん
 八王寺銀座の調査から、自転車店が多さが目立ちます。交通用具として自転車が重宝されていた時代を写しています。マイカー時代の到来で、自動車にその座を譲りますが、自動車を持たない/持てない人にとっては貴重な移動/運搬手段だったはずです。「自転車屋は、わずかな資本とちょっとした器用さがあれば開業できた、新しいタイヤやチューブが入手困難で、旧いものを修理して使い続けなければならない確かな需要があった」ようです(日吉町・宮本自転車店談)。八王寺町内では、窪津自転車店、野上自転車店、高畠自転車店、川東町内では、松本自転車店、東八王寺町内では、岡部自転車店、水江町内では、石井自転車店らが、営業していました。いまでは、ほとんどが廃業し、近隣では、水江の石井自転車店と昭和47年に日吉町に開店した宮本自転車店(サイクルショップみやもと)のみとなっています。
 

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