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 平成17年に刊行された「語り継ぐ中洲・中島」には、次のような一節があります。
 「大高村の笹沖に天台宗の井上寺があったのが、1585(天正13)年、渋江に移ったとき、鎮守の山王を八王寺に移したといわれ、山王七社のうち八王寺権現をお祭りしたことから八王寺の地名がついたと言われています。」

 天正開発書の新開記録付紙には、次のようにあります(中洲町史より引用)。
 「元和年間川筋倉敷の方へ付る、此辺芦原にて伯楽市村少し田畑と成、渋江辺もすべて芦原なり、依て倉敷も渡り上り向ひ倉敷村と云ふ名残れり、八王寺は新開後井上寺の山王社を引遷し土地の名とせり、山王七社の内、八王寺権現あればなり、今日の山王の祠是なり。天正十一年岡豊前守の思ひ付にて新開なし、其の節浅口郡の内毛利領をも開きしなり、其頃浜村モズガ端辺まで芦原なり、千原九右衛門勝則は西阿知に住し、工夫して酒津古川新田より河原浜通りへの三町余りの堤を築けり、其の時の樋守三四郎を新田へ出し浜村にゐて樋守の役をいたしけり。
 元和四年是より先、酒津川二俣に流れしが、一つは今の水江川、叉一つは東に流れて地名に残れり。酒津郷村名寄帳に、古川新田(今の王子宮の山の端をいふ)夫より少し東を渡り上りと云。田畑あり、其の横を河原と云、夫より浜村へ流れ倉敷に至る。浜村庄屋の裏に古土手の跡今に歿れり。」

 青龍山地蔵院(倉敷市阿知3-20-17)の縁起を記述したあるホームページによれば、
 「寺伝によると、同寺は昔、倉敷市笹沖の葦高宮の別当・神宮寺の塔頭の一梵刹であったと記されている。元禄の頃までは、「青龍山地蔵院井上寺」と称され、本尊は地蔵菩薩で、脇侍に性善・性悪の両童子を安置。本堂(五間×六間)、客殿(五間×十間)、庫裡(六間×五間)、経蔵(一間半×二間)、山門(一間半×二間)、大師堂(二間半×三間)など諸堂を備えた堂々たる寺院であった。
 天正十三年(1585)、勢海法印は新開地・日吉(現在の倉敷西中学の辺り)に移転し中興開山した。さらに第五世の秀厳法印が貞享年間(1684~88)に現在地に移転し、現在の寺号を公称した。
 こうした記録は『神遊山古記』にも登場する。「聖武天皇の御宇初めて別当の寺院を居られ、山上に数箇寺有しとぞ、後三条院御宇智空上人此寺に住ひ社法定る。其寺院には神遊山神宮寺、明王院、安楽坊、各智空上人の流れを汲む、天正の頃より諸寺皆山を下りて新開地に移る、遍照院是なり、井上寺は日吉より更に倉敷に移る、地蔵院是なり」とあるように、倉敷の干拓によって移転したことが窺える。」

(http://www.asahi-net.or.jp/~wj8t-okmt/400-02-kurasiki-ati-zizouin.htm)


 上の3つの記述の種本は、江戸末期に編まれた「備中誌窪屋郡」(明治35年翻刻)のようですが、同誌にはもう一箇所、八王寺の由来に触れたところがあります。日吉庄(ひえのしょう=今の日吉町)の条です。
「日吉庄
 高五百五拾六石八斗 元禄同じ
 岡宗左衛門附志ニ’日吉庄領主といふ是か非か
 山王権現
 本社一間半一間  拝殿方一間 前殿一間ニ三間 山林平地十五間四方
 社の四方に塀有内陣位冠束帯の神像有大宮権現と見ゆ山王は七社也東坂本に鎮座す大宮聖真子八王子客人十禅師二宮三宮是七社也
 此社は笹沖寺谷と云處に井上寺と云天台宗の寺有しか天正十三年笹沖より渋江村へ遷りし時鎮守山王を今の地に移せり此並び村に八王寺といふは山王七社内八王寺権現を祭れるより村の名とせるならずや
 秀雄按に此山王社も昔は七体有しか失て一体残れるを祭りてけり同社の中春日明神神体地蔵の像を安置せり是も山王七社の内十禅師の本地仏なればここの山王七体の本地仏なるべし」
ここには、笹沖から山王権現(日吉町の山王春日神社か?)を移設し、同時に、山王七社のうち八王寺権現を隣村の八王寺で祀ったと説明されています。

 この4つの引用が示すところによれば、天正13年(1585年、秀吉による高松城の水攻めの2年後)に、地蔵院の元であるらしい?井上寺が渋江(あるいは日吉?)に移転したとき、同寺の守り神である山王の八王寺(子)権現を引遷したところを「八王寺」と名づけたということです。「今日の山王の祠(ほこら)是あり」となれば、その祠はどこにあるのでしょう。フシギの一つです(八王寺権現、八王子権現のいずれが正しいかの議論は、八王子?に譲ります)。

 本ホームページの編集子は、八王寺町28番地の祇園神社がそれにあたると考えています。現在は、八王寺町52番地の三社神社の飛び地境外神社になっていますが、祇園神社は、かつて「てんのうさま=天王様」と呼ばれていました。今でも、年配の人は、そう呼びます。明治4年の神仏分離令により、神社に「天王」の号が使えなくなったので、以降全国の天王社は、八坂・八雲・祇園・素盞鳴(スサノオ)などに改称されましたが、この例に従えば、社名に天王という名が含まれていたと推測されます。この天王とは、牛頭天王(ゴズテンノウ)のこと、そして、その牛頭天王の化身が素盞鳴尊(天照大神の弟)とされています。

 さて、牛頭天王には、その后頗梨采女(ハリサイジョ)との間に8人の子がいるとされており、これが八王子です。山王信仰にいう山王七社の1つが、この八王子を祀る八王子権現社です。八王子神は次のとおりです。

 ところが、先に触れた明治の神仏分離令によって、八王子が、牛頭天王と習合していた素盞鳴尊と天照大神との誓約(うけい)で化生した五男三女神に変えられました。五男三女神とは以下の神です。

 岡山神社庁によれば、本宮の三社神社の祭神は、天照大神、上に掲げた8神(=五男三女神)、さらに素盞鳴尊となっています。三社神社と祇園神社は別々の神社であったものを、祇園神社を境外神社としたとき、祭神を集合したのではないか? つまり、三社神社の祭神は天照大神で、残りの8+1神が、祇園神社=てんのうさまの祭神だった、とすれば、てんのうさまが八王子(寺)権現の山王の祠だった、編集子の辿り着いた結論です。でも、まちがっているかも?
 「別々の神社であったもの」としたのには、理由があります。備中誌窪屋郡の八王寺の条に、祇園牛頭天王、三社権現、産土神、御崎明神の4社が挙げられていることです。
・祇園牛頭天王社については、本社一間ニ一間半 拝殿三間、石鳥居、林松生平地七八間四方、いずれより移し来れるにや
・三社権現社については、本社三間□、松林七八間四方の平地也、石鳥居有
とあり、2つの神社は別々のものであったことはまちがいないようです。
 ただ、「どこから移してきたのだろうか」と説明されていることが、少し気がかりです。ちなみに、御崎明神は、大内の御崎神社のことのようです(吉備温故秘録付録窪屋郡大内郷八王寺村の条に「御崎大明神、八王寺村」とあります)、産土神については不明です。

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