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八王寺か八王子か?
 八王寺町内に届いた郵便物の中には、八王子あるいは八王子町とまちがって宛名書きされたものが散見されます。行政が作成した配布物の中にも、八王子町と誤記されていることがしばしばあります。なぜ、このようなまちがいが起こるのか? おそらく、東京都八王子市の存在でしょう。八王子の方が八王寺より有名だからです。
 Web検索で、八王子を検索してみます。「八王子市」に関係したもの(根ざしたもの)、八王子権現(社)、八王子神社、八王子社がヒットします。
 一方、八王寺を検索してみます。地名でヒットしたものは、

です。加えて、この地名に関係したもの(根ざした)がヒットします。さらに、八王寺というそのままの寺の名前がヒットします。


これらのWeb検索には、冒頭で指摘したまちがい、つまり、明らかに、八王子なのに八王寺とまちがっている、逆に、八王寺なのに八王子とまちがっている事例もいくつか現れてきます。
 まとめると、「八王子」は、地名としては八王子市に現れるだけで、あとは、神社名として現れます。一方、「八王寺」は、地名として全国に10箇所近く現れ、当然のことながら、八王寺という寺名に現れます。
 名前の由来で見たように、八王子権現が由来なら、私たちの「八王寺」も「八王子」の方が正しそうですが、八王子権現のことを八王寺権現と記している例も少なからずあります。1、2例挙げましょう(編集子は、引用ではそのまま、説明のくだりでは八王子(寺)権現あるいは八王寺(子)権現と記しています)。

「地理と歴史」のページでとりあけた備中誌窪屋郡の日吉庄の山王権現のくだりです(読みやすくするため句読点などを追加しています)。
 「山王権現
 本社一間半一間  拝殿方一間 前殿一間ニ三間 山林平地十五間四方
 社の四方に塀有。内陣位冠束帯の神像有。大宮権現と見ゆ。山王は七社也。東坂本に鎮座す大宮、聖真子、八王子、客人、十禅師、二宮、三宮、是七社也。
 此社は笹沖寺谷と云處に井上寺と云天台宗の寺有しか、天正十三年笹沖より渋江村へ遷りし時、鎮守山王を今の地に移せり。此並び村に八王寺といふは、山王七社内八王寺権現を祭れるより、村の名とせるならずや。
 秀雄、按に此山王社も昔は七体有しか失て一体残れるを祭りてけり。同社の中、春日明神神体地蔵の像を安置せり。是も山王七社の内十禅師の本地仏なれば、ここの山王七体の本地仏なるべし。」

もう1つは、福島県北会津にある八王寺神社の縁起の記述です。
「鷺林八王子神社
 八王寺神社と西福寺由来 寛文五年と貞享二年の書上げには共に八王寺権現とみえている。文化六年の風土記には既に八王寺神杜とあるから、早く神仏を分離して、神社になっているらしい。延宝三年(一六七五)勧請の棟札がある。表中央に「勧請八王子宝神 鷺林」その右に「伊勢 陸奥国会津」左に「福神在座」とあり、裏には「延宝三乙卯三月吉日」とある。延宝三年は大饑饉のあった年であるから、修験が八王子権現を勧請して祈願したのが起りではないかと思う。この棟札をみると、大神宮と福徳大明神は最初から相殿になっていたらしい。」(福島県北会津村誌)

 古地図・絵図で紹介している地図の中にも、八王子と表記しているものがいくつかあります。  江戸末期の天保絵図では、八王寺村と八王子村の2つが現れています。同時期の天保郷帳の備中国郷帳の窪屋郡の条にも2つの村が現れます、前者は独立村として、後者は「日吉庄村の内 八王子村」として扱われています。編集子は、同じ名前をもつ村がもう1つできて、それを区別するための便法だったと考えています。


 大阪市に天王寺というところがあります。もともとは四天王寺と呼んでいたとようですが、四が消えて天王寺になったと伝えられています。四天王寺ば、聖徳太子が建立した、有名な寺院です。この有名な漢字遣いが、八王子が八王寺と表記されるようになったという説がありますが、編集子は疑っています。
 そろそろ、結論です。私たちの八王寺を「八王子」と記述するのはやはりまちがいです。しかし、「はちおうじ」を八王子と記述していたこともあったことも事実です。それが地図の作成者のまちがいとしてもです。私たちは、永く、音に漢字を当てはめる=真名で文化を醸成してきました。識者が「八王子」と漢字を当てても、庶民は「八王寺」と書いたのかも知れないのです。


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