トップ 空中写真 名前の由来 地理と歴史 古地図絵図 八王子? 他の地誌 編集後記 キッズ八王寺 町内会
八王寺覚書 東八王寺の歴史

初版表紙

増補版表紙

 平成28=2016年初夏、東八王寺公民館編「東八王寺の歴史(以下、東歴と略記)」(昭和61=1986年8月/池田作之進著/B5版手書き原稿コピー/写真7+本文16+その他3=26ページ)を入手することができました(山口三郎氏の紹介)。昭和60年10月、東八王寺町内会の役員会で八王寺音頭をつくることが決定し、その作詞の準備資料の調査・執筆を依頼されたのが池田氏で、ほぼ1年間をかけて仕上げられた労作です(はじめにの項より)。件の八王寺音頭は作られなかったようです。
 平成28=2016年盛夏、池田氏と懇談する機会を得ました。その中で
  ・平成14=2002年に内容を増補改訂したこと
  ・発行部数は数冊であること
  ・八王寺あれこれ(以下あれこれと略記)と同様に、手探りからはじめたこと
などを知りました。
 池田氏より提供された増補改訂版は、平成14=2002年11月/池田作之進著/B5版ワープロ印刷/写真9+本文16+その他2=27ページで、「水島の空襲」、「岡山の戦災」、「東八王寺町歴代町内会長」が追加され、かつ一部の旧かな使いが現代風に改められています。表紙には、「東八王寺公民館」も「東八王寺町内会」の表記はありません、増補改訂は池田氏個人の所業ということでしょうか、町内会は関与してない?。

 なぜ、同じ「八王寺町」という地番をもつ地域が隣り合わせでできたのか? この難問に東歴がズバリ答えてくれるかもしれません。
 あれこれの地理と歴史>再考その1、その2、むすびでは、以下のように歴史的事実を明らかにしています、これを参考に東歴を読み進めるとおもしろいかもしれません。
●天正開発当初は、西の八王寺と東の八王寺は一体で、江戸期に入り村が成立する中で、西は酒津村の枝村として幕府領に、東は八王寺村として、備前領と溝咋領になります。
●明治10=1877年、八王寺村(=東八王寺)、日吉村、川入村、大内村が合併して、富久村ができます。富久村大字八王寺と標記されます。
●明治の大合併(明治22=1889年)で安江を北端とする大市村(明治33=1900年に、葦高村と合併して大高村)、富久村を西端とする万寿村、酒津村+水江村+中島村で中洲村ができます。、このとき、西の八王寺を南北に分断する村界(鴨方往来が村界となり、大道南の字が安江分に編入)が敷かれます。西の八王寺は、消滅したことになります。一方、東の八王寺は、万寿村大字富久八王寺と標記されます。
●昭和2=1927年、倉敷町は、大高村、万寿村を合併して、新たな倉敷町になります。次年には、倉敷市になります。東の八王寺は、倉敷市に、西の八王寺の大道南分=鴨方往来以南も倉敷市になります。
●昭和10=1935年、倉敷市は、町名町界変更を実施します。このとき、東の八王寺は、旧大字名のとおり、八王寺町と命名されました。さらに昔の記憶のままに、西の八王寺の安江分の一部(大道南他、鴨方往来の南)を八王寺町に編入しています。鴨方往来の北は、中洲村大字酒津のままです。
●中洲村は、昭和15=1940年に中洲町になっていますが、昭和19=1944年に倉敷市に合併します。鴨方往来以北の酒津地番は、そのまま引き継がれて現在に至っています。


 西の八王寺を語る時、東の八王寺は常に気になる存在です。東歴は、発行部数が少ないことから、散逸の恐れがあります。東の八王寺を語る重要な資料です、池田氏のご了解をいただきましたので、あれこれにその全文を収録させていただきます。初版は手書き原稿で、ついで入手した増補版はワープロ印刷でした。編集子の好みで、初版の翻刻を優先し、それに増補部分を加えることにしました。増補版の文章は現代風に修正されていますが、初版の昔風の面影を残すようにしました。増補版で変更のあったところあるいは追加されたところは、下線と赤字で明示しています。また、写真は、初版では口絵風に巻頭に、増補版では巻末に、それぞれまとめられていましたが、この全文では関係場所に適宜インラインに配置しなおしています。

東八王寺の歴史その1(pdf)東八王寺の歴史その2(pdf)東八王寺の歴史その3(pdf)




八王寺覚書 東八王寺の歴史

Copyright(C) 2012,2013 八王寺町内会

inserted by FC2 system