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再考その2
地理と歴史>明治期~では、八王寺村(103石)について、その位置を特定することが難しい(たとえば、天保国絵図では、かなり北よりに描かれている)ことを指摘しました。それでも、現在の八王寺町内会が組織されている地域に(少し強引に)相当するとして、それがどのように改廃され、再興していったかを物語にしました。ところが、・・・
再考その2は、明治の混乱期の中で、どのように「酒津村八王寺」が消えていったかを見つめます。そして、あらためて、再興の物語です。
明治初期のバタバタ
明治政府の地方制度作りは紆余曲折します。まず、江戸幕府の各藩の支配を解くため、1869(明治2)年版籍奉還を行います。続いて、1871(明治4)年廃藩置県を行いますが、このときの府県数は旧藩を引き継ぎ、3府302県もありました(備中は11県もありました)。その後、戸籍法を実施するための大区小区制、戸長制といった制度が作られますが、この時期の国と地方の関係は混乱を極めています。 1878(明治11)年に3新法と呼ばれる、郡区町村編成法、府県会規則、地方税規則が制定され、さらに、憲法の制定と国会開設をにらみそれらを改正した市制・町村制、府県制・群制がそれぞれ1888(明治21)年、1890(明治23)年に制定公布されています。
廃藩置県
1871(明治4)年、藩を廃止して県が置かれます。備前は、岡山県の1県でしたが、備中では、岡山県、鴨方県、生坂県、倉敷県、庭瀬県、足守県、浅尾県、岡田県、高梁県、成羽県、新見県の11県が置かれました。ほぼ藩領を踏襲する形での置県でしたが、幕府領(天領)と旗本領がまとめられて倉敷県になっています。藩領を踏襲するということは、飛地だらけの置県だったわけですが、その年のうちには、鴨方県と生坂県を岡山県に吸収して、岡山県と深津県(→次の年には、小田県)の2つに集約されます。さらに、4年後には、岡山県の1県にまとめられます。
八王寺村についてみれば、
八王寺村(生坂):~明治2年 岡山藩の生坂支藩領→明治3年 生坂藩領→明治4年7月 生坂県→明治4年11月 岡山県→明治8年 岡山県
八王寺村(溝杭):~明治2年 旗本攝津溝杭長谷川領→明治4年7月 倉敷県→明治4年11月 深津県→明治5年 小田県→明治8年 岡山県
と遷移します。
この様子を、廃藩置県の推移にまとめました。
戸長制度
1871(明治4)年、戸籍法が制定された際に、7・8ヶ村を「区」と呼ばれる単位に編成して「戸籍のみ」を区単位で管理することとします。各区にはその責任者として戸長・副戸長が置かれました。
区 | 村 | 戸長/副戸長 | |
---|---|---|---|
深津県第15大区小2区 | 沖村村・安江村 | 板谷弥兵/小野隆太郎 | |
深津県第15大区小7区 | 日吉庄村・八王寺村・大内村 | 横山半平/鳥越楠次 | |
深津県第15大区小8区 | 酒津村 | 三宅染次/児島徳平治 | |
岡山県第47区3番小区 | 福島村・大島村・平田村・子位庄村・川入村 | 秋岡素平 | |
岡山県第48区3番小区 | 水江村 | 白神節三 |
大区小区制
1872(明治5)年、太政官布告によって、旧来の庄屋・名主などの村役人の呼称を廃止して戸長・副戸長と呼ぶこととなりました。だが、従来の「区」との関連付けが不十分であったために、同年末、旧来の郡・町・村の行政区分を廃して大区小区制を導入、大区に区長(会議所)、小区に戸長・副戸長(小区事務所)を設置することとして、戸長・副戸長は戸籍の管理のみならず、明治政府による行政政策の実施にあたるようになりました。
区 | 村 | 戸長/副戸長 | |
---|---|---|---|
小田県第15大区小3区 | 福井村・沖村・安江村 | 木村光太郎/板谷弥兵・小野隆太郎 | |
小田県第15大区小13区 | 川入村・日吉庄村・八王寺村(生坂)・八王寺村(倉敷) ・大内村 | 横山半平/鳥越楠次・秋岡素平 | |
小田県第15大区小14区 | 水江村 | 河島丈四郎/白神節三 | |
小田県第15大区小15区 | 酒津村 | 三宅染次/児島徳平治 |
1877(明治10)年、大区の会議所、小区の小区事務所を廃止して、区務所と戸長役場を設置します。都宇郡と窪屋郡は、第8区務所を倉敷村に置きます。
戸長役場 | 小区・村 | 戸長 | |
---|---|---|---|
第5戸長役場 | 第15大区小1~5区 中島・福井・沖・安江・笹沖・吉岡・白楽市・白楽市新田・四十瀬 | 神崎貞三郎・秋岡素平 | |
第6戸長役場 | 第15大区小13~18区 富久・水江・酒津・子位庄・浅原・西坂・生坂・三田 | 高尾仙作・三宅染次 |
郡区町村編制法
1878(明治11)年、それまでの大区小区制を廃止して、旧来の郡・町・村を復活させた郡区町村編制法が制定されます。復活させた村(小規模町村では複数の町村単位)ごとに民選の戸長を選出することとしましたが、かつての庄屋・名主層などから選出される場合が多かったようです。戸長は政府の地方官(旧来の代官)としての側面と旧来の村役人としての性格を並存させており、その矛盾は、戸長が自由民権運動の指導者となる形で現れることになります。
この周辺では、
村 | 戸長 | ||
---|---|---|---|
安江村 | 原實太郎 | ||
富久村 | 秋岡素平→堀平十郎 | ||
水江村 | 白神節三 | ||
酒津村 | 三宅染治→梶谷廉平 |
明治の大合併
郡区町村編制法も、ほぼ10年間しか保ちません、1889(明治22)年、市制町村制が施行されます。これには先立って、町村合併標準が提示され、約300~500戸を標準規模として町村の合併が全国的に行われます。約71,000あった町村数が約15,000になりました、約5分の1まで激減しています。この周辺では、中洲村、葦高村、大市村、万寿村ができています(葦高村は明治26年、他は明治22年)。
飛地の編入と合併
もともと廃藩置県は、藩を県に置き換えただけのもので、点在した領地に手を加えていませんでした。2度の府県統合を実施して、点在の領地=県は解消されましたが、個々の村の持つ飛地はそのままでした。
都窪郡治誌によれば、明治9年10月31日、この周りでいくつかの飛地の編入がありました。飛地がどこにあったかは特定できていませんが、隣接する村に編入させたことはまちがいありません。おそらく、この編入は、続く富久村の合併の準備だったように思います。また、大区小区制の項でとりあげた小田県第15大区小13区(川入村・日吉庄村・八王寺村(生坂)・八王寺村(倉敷) ・大内村)がそのまま合併したということは、何か特別な事情があったのかもしれません。同じ時期、この周辺では、田之上村と渋江村が合併して老松村ができているだけです。
- 川入村(備前) + 濱村飛地 → 川入村
- 大内村(備前/溝杭) + 八王寺村飛地(元岡山県) → 大内村
- 八王寺村 (溝杭) + 八王寺村飛地(元岡山県) → 八王寺村
こののち、明治10年5月25日、富久村の合併があります。
- 川入村 + 大内村 + 八王寺村 + 日吉庄村(溝杭) → 富久村
同じ編入合併を、倉敷市史は、明治9年10月31日に、
- 川入村(生坂) + 濱村飛地 → 川入村
- 大内村(溝杭) + 八王寺村飛地(生坂) → 大内村
- 八王子村 (生坂/溝杭) + 日吉村(溝杭) → 八王寺村
こののち、明治10年5月25日に、
- 川入村 + 大内村 + 八王寺村 → 富久村
旗本溝杭長谷川領の八王寺(子)村と生坂藩領の八王寺(子)村を合併して、八王寺村としています。倉敷市史では、その合併が、旗本溝杭長谷川領の日吉村まで含んでいますが、少なくとも2つの八王寺(子)村が合併したことは確かでしょう。さらに、生坂藩領の八王寺村の一部(飛地)は、大内村に編入されています。 富久村の合併前に、飛地は整理され、2つの八王寺村は、1つの八王寺村に統合されていたということです。
戸長制度の改革=連合戸長役場
1884(明治17)年には、戸長制度の改革を行い、戸長を知事の任命による官選に切り替えて平均5町村500戸に戸長1名を置く制度に変更します。これによって政府の国策に忠実な行政官を戸長に任命することが可能になったのですが、一方で戸長の給与を改善して既存の戸長を政府側に取り込む措置も図られました。
戸長役場 | 村 | 戸長 | |
---|---|---|---|
窪屋郡第2部戸長役場 | 安江村・沖村・老松村・白楽市村・西中新田村 | 小野隆太郎 | |
窪屋郡第3部戸長役場 | 四十瀬村・富井村・笹沖村・吉岡村・福井村 | 神崎真三郎 | |
窪屋郡第5部戸長役場 | 富久村・浜村・大島村・平田村・福島村 | 窪津大紀 | |
窪屋郡第7部戸長役場 | 酒津村・水江村・中島村(三村聨合村) | 藤野宇一 |
市制・町村制の導入=大合併
1889年(明治22年)、市制・町村制の導入です。万寿村や中洲村では連合戸長役場と同じ編成で合併が行われています。
合併村 | 旧村 | 村長 | |
---|---|---|---|
大市村 | 安江村・沖村・四十瀬村・富井村・福井村 | 大内毅一郎 | |
万寿村 | 富久村・浜村・大島村・平田村、福島村 | 江口竹太郎 | |
中洲村 | 酒津村・水江村・中島村 | 藤野宇一 | |
葦高村 | 老松村・白楽市村・西中新田村・笹沖村・吉岡村 | 板谷弥兵 |
あらためて消失再興の物語です
八王寺の消失を、富久村の合併時とする物語はまちがっていたようです。それより、12年後の中洲村、万寿村、大市村の合併時の村界変更が、八王寺を消したようです。
酒津村八王寺が消えた!
この合併のとき、万寿村、中洲村、大市村の村界が改められたように思います。再考その1で取り上げた明治18年の岡山県三国地図と古地図絵図>明治期~で扱った明治32年の陸軍陸地測量部の地図との比較がその根拠です。根拠と主張するには、はなはだ心もとないですが、万寿村、中洲村、大市村の境界をケイト川に、中洲村と大市村の境界を鴨方往来に定めたのではないか、鴨方往来をはさんで南北にあった旧酒津村八王寺の南分=大道南が、大市村大字安江になったと推測します。村界として、道路や川・用水を採用した結果だろうと思います。その結果、旧酒津村八王寺が消えたということです。
これで、富久村の合併が、鴨方往来をはさんで南北にあった「八王寺」の分解を促したという物語は破産してしまいました。富久村の合併(明治10年)から遅れること12年、明治の大合併(明治22年)にその因があるらしい、これが新しい物語です。ただ、富久村の合併は、明治政府の地方制度のバタバタを象徴する出来事であり、その後の町村合併の口火をきったという意味からは、遠因の1つとも考えられます。
富久村の合併後、「八王寺」という名は、富久村大字八王寺として残り、万寿村の合併後は、万寿村大字(富久)八王寺として生き続けます。酒津村八王寺の名に、未練はなかったのでしょうか.。おそらくあったはずです、46年後の昭和10年に同じ手口(町界変更)で取り返して見せます。
村界をケイト川や鴨方往来に改めたとき、中洲村=旧酒津村は、かなりの負担を強いられています。村域の減積に賛意を示す村民はいなかったはずです、鴨方往来の村界変更は、酒津村八王寺の地縁を南北に分断するものですから、なおさら深刻です。コミュニティを破壊されるわけですから、条件やら激変緩和措置があったはずです。その1つは、小学校区のあいまいさに現れています。中洲小学校・大高小学校・万寿小学校のいずれに通学するか、自由度を与えていたようです。
それでも、この村界変更が成し遂げられたのは、幕末から明治にかけて、酒津村を差配した三宅染次と児島徳平治の2人の努力があったからだと推察しています。本ページの中で、制度とともに戸長や村長を列記していますが、彼らの名前が頻繁に出てきます、注目して欲しいと思います。ちなみに、幕末の村役人のリストです。ここにも三宅染次の名が出てきます。
備中村鑑
1861(文久元)年に編まれた地誌で、備中国の領主ごとに区分けされた各村の村役と石高が記されています、その抜粋です。幕末からの村役が、そのまま明治の地方制度、特に戸籍の管理を担う戸長として引き継がれていることがうかがえます。
○御料所 御陣屋倉敷 御代官大竹左馬太郎様 | ||
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千二百十七石九斗六升一合 | 濱村 | 屋茸富太郎 |
百三十石 | 子位庄村 | 同人 |
七百八十石二斗二升七合 | 酒津村 | 年寄三宅染次 |
千五百六十一石九斗六升九合 | 中島村 | 若林五左衛門、三島舒太郎 |
五百五十九石六斗八合 | 沖村 | 小野帰一・同時之助 |
二百七十八石五斗四升一合 | 安江村 | 和栗仁左衛門 |
○松平内蔵頭様 御城下備前岡山 | ||
七百四十八石八斗八升 | 水江村 | 白神左一郎 |
二千七百四石四斗 | 生坂村 | 間野文太夫 |
千三百九十九石九斗九升一合 | 子位庄 | 窪津延助 |
二百二十四石二斗二升二合 | 川入村 | 秋岡惣五郎 |
千二百十五石八斗二升八合 | 渋江村 | 土倉亀之助・田邊和一郎 |
九百六十九石四合 | 白楽市 | 岡利左衛門 |
三百七十石一斗八升三合 | 四十瀬村 | 板谷七郎治 |
二千六百七十九石四斗九升六合 | 西郡村 | 守安良右衛門 |
七百四十九石四斗九升七合 | 福島村 | 江口市右衛門・同金吉 |
百七十八石五斗九升八合 | 古地村 | 土師治平・吉澤嘉源太 |
五百石 | 三田村 | 守屋周左衛門 |
百三石三斗二升 | 八王寺村 | 秋岡惣五郎 |
六百四十四石二斗八升六合 | 大島村 | 秋岡庄兵衛 |
千百石三斗八升九合 | 平田村 | 難波傳左衛門 |
○長谷川為次郎様 | ||
五百五十六石八斗二勺 | 窪屋郡日吉庄 | 鳥越右源次・横山民三郎 |
1935(昭和10)年、倉敷市町名町界変更
平成9年度より、倉敷市は旧町名保存事業を実施しました。「昭和10年に倉敷市が施行使用した行政町名で、昭和40年度から昭和46年度にかけて、実施された住居表示整備事業により消えた12町の町名の表示柱を設置する事業」です。その事業の担当である文化振興課より、「昭和10年10月10日改称町名施行前」と題された資料が提供されました。そこには、大字ごとに、その中の小字のどの番地がどの町に改称されるかがリストアップされています。
まず、大字「富久」のうち、下記左欄の字番地が「八王寺町」に改称されています。今の東八王寺町内会分です。ハチオウジマチとふりがながふられています。
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