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江戸期 明治期~ 高梁川改修
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 1624~44(寛永1~21)年、寛永国絵図 1620年(元和6年)の八王寺や水江の開発から10数年後です。東西に走る街道は、北が山陽道、南が備中浜街道(のちの鴨方往来)です。八王寺村は、浜街道から少し離れた北側に描かれています。

 1687(貞享4)年、備中国地図 開発から70年後です。寛永国絵図とほほ同じですが、八王寺村は浜街道に沿うように描かれています。鴨方往来が、東高梁川にぶつかった後、南に下って川越えしていたように見えます。

 1701(元禄14)年、元禄国絵図 鴨方往来の北には八王寺村だけがぽつんとあるように感じます。貞享の国地図には見えていた大内村などが省かれています。鴨方往来は、東高梁川を直交しています。

 1706(宝永2)年、都宇窪屋郡拾ヶ村大絵図 八王寺村と倉鋪(倉敷)村を結ぶ往来が見えます。八王寺村は、大内村とともに鴨方街道の北に描かれています。

 1803(文化3)年、伊能国-讃岐・丸亀・備中・松山・備前・児島の図(151/214) 伊能忠敬(1745~1818)による第5次測量(近畿・中国)で踏査・測量された図の部分図です。八王寺の名は現れませんが、近隣の田上、四十瀬、渋江(=老松1丁目)が見えます。

 1829(文政12)年、吉備中国大略図 備中国の名所旧跡、舟渡を記した絵図です。八王寺は、往来の南に八王子として記されています。北には大内があります。その往来は倉敷へ向かっていますので、鴨方往来でないように思います(あるいは、鴨方往来が、倉敷を経由していたと誤解していたのかもしれません)。

 1835~1838(天保6~9)年、天保国絵図 街道筋に八王子村、大きく北側に外れたところに八王寺村の両村が描かれています。天保郷帳によれば、前者は「日吉庄村の内 八王子」と表記されています。

 1837(天保8)年、高梁川(東大川西大川)の図 図の切れ目に、日吉庄村八王寺との記述が見えます。

 1850(嘉永3)年、嘉永大洪水絵図 安江・四十瀬のあたりの東堤が決壊して大洪水が発生し、水は早島を越えて内尾(岡山市南区)まで及んだと記録されています。当然、八王寺も水没したようです。

 1850(嘉永3)年、もう1つの嘉永大洪水絵図 八王寺の南に、川を越えて水江が記されています。


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