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~天正開発 江戸期 明治期~ 再考その1 再考その2 再考むすび
八王寺を中心にした、周辺村の変遷史 を併せて参照ください。後段の八王寺の消失についての物語は破産しました、そして新たな物語を再考その1、その2で考えます。

明治期~

 下の地図は、明治期のものではありません、現在の地図です。町界(村界)などを重ね描きすることができ、さらに線の太さなどが自動調整されるので、続く説明に好都合で、利用しています。

まずは、時間を追ってみます

明治10(1877)年 八王寺村→富久村(とみひさ村)
明治24(1891)年明治22(1889)年 富久村→万寿村(ます村)

 江戸期から明治はじめにかけての村界を黒色の実線で示します。  明治10(1877)年、八王寺、日吉、大内、川入の4村が合併して、富久村を作ります。さらに、明治24(1891)年明治22(1889)年には、その富久、浜、平田、大島、福島の5村が合併して万寿村を作ります。明治32(1899)年の陸軍陸地測量部の地図には、八王寺村の村界は明示されていませんが、万寿村の村界をたどっていくと、ケイト川以東の現在の東八王寺に相当する地域だったことがわかります。富久村になったとき、富久村(大字)八王寺と呼ばれ、万寿村になったときには、万寿村(大字)八王寺と呼ばれていたはずです。当時の地図では、万寿村富久八王寺、万寿村富久「八王寺」などと表されています。
 そうすると、ケイト川以西の八王寺はどこにあるのでしょう? ピンクで塗られた矩形のあたりのはずです、どこにも見当たりません。フシギの一つです。東高梁川が廃川地になる前ですから、その面積は、富久八王寺の1/4にも満たない小さな八王寺だったはずです。

明治44(1911)年~大正14(1925)年 高梁川大改修と八王寺
 明治44(1911)年に始まった高梁川の大改修は、八王寺に2つの大きな影響をもたらします。1つは、南部用水の掘削とそれに架る八王寺橋の建設です。もう1つは、廃川地の利用による村域の拡大です。南部用水については、さらに由来に譲りますが、八王寺橋は、大正14(1925)年の建設当時からその名は八王寺橋です。今も残る石の欄干には「はちわうじ」が刻まれています。往時の地図には、この橋の上に村界が描かれており、北は中洲村酒津、南は大高村安江(前は大市村)です。八王寺がないのに、なぜ「八王寺橋」なのか? また、フシギです。  廃川地処分については、かなりごたごたがあったようですが、改修前の村界がそのまま保たれたようです。つまり、鴨方往来に沿って、廃川地の中央までの南、東を大高村安江、その北、西を中洲村酒津ということです。新開地ということで、この往来=村界沿いに、たくさんの人が集まったことは容易に想像できます。

昭和10(1935)年 (大字)八王寺→八王寺町
 昭和10(1935)年の倉敷市の町界町名変更で、(大字)八王寺が八王寺町になりました。(大字)日吉も日吉町になりましたが、その他の周辺の安江、大内、川入などは、そのままでした(水江や酒津は、中洲村だったので対象外)。さらに、町界変更で、安江の一部が切り取られて、八王寺町に追加されます
 赤色の実線で囲んだ部分が、現在、八王寺町の地番がついている地域です。その中の赤色の点線で分けられた東側が明治10(1877)年に富久村になった八王寺=今の東八王寺です(仮に八王寺1と呼びます)、西側が昭和10(1935)年の町界町名変更で安江から切り取られて追加された八王寺です(仮に八王寺2と呼びます、他のページでは「もう1つの八王寺」とも呼んでいます)。
 (大字)八王寺が八王寺町になった理由は、よく分かりません。別ページで賑わった八王寺銀座を取り上げますが、おそらく、町という名にふさわしい賑わいがあったのだと想像します。そして、賑わったのは、八王寺1よりむしろ八王寺2とその北側筋の方だったのではないかと推測しています。それはさておき、なぜ、八王寺2が安江から切り取られて八王寺町に追加されたのでしょう。さらに、フシギです

昭和19(1944)年 中洲町が倉敷市に編入合併
 八王寺2の北側の境界は、鴨方往来です。つまり、赤色の点線の北側の端点<からの八王寺橋まで、そこから真西に進んで廃川地の中央までが村界で、その北側は、中洲村酒津(編入当時は中洲町酒津)です。ここにも、一定規模の広さの八王寺があったはず(青色の実線で囲った部分)と推測します、仮に八王寺3と呼びます)で、この編入合併時に、なぜ復権しなかったのでしょうか、逆のフシギです

ここからは、説明と物語です

東八王寺と八王寺村
 八王寺1を、今は東八王寺と呼んでいますが、かつて、八王寺2、八王寺3の住人は「さきはちおうじ」と呼んでいました。東を「さき」と訓んだのかもしれませんが、時間的に先にあったことはまちがいないようです(東があれば西があるはず、編集子は、八王寺3の住人の遺品の古い写真の裏書に「西八王寺」という文字を認めています)。江戸期の古地図に示されている「八王寺村」は、その村界が明示されていませんし、地図によって、その位置もかなり動いていますので、「八王寺村」の位置を確定することはできません。「慶長(1596~1615)末年、倉敷川を酒津で締切り、東高梁川の左岸に築いた新堤と日吉庄村(ひえのしょう、現在の日吉町)との間にできた新田の東半分が当村であると思われる」(平凡社-岡山県の地名)という説明から、八王寺1が、江戸初期の八王寺村だったことはまちがいありません。

八王寺町内会と東八王寺町内会
 現在、八王寺1には、東八王寺町内会が組織されています。一方、八王寺2には、八王寺3、さらに南側の紫色の実線で囲んだ安江地番の地域を加えて、八王寺町内会が組織されています。安江地番の地域の編入は、八王寺町と安江にまたがる地域に住宅分譲地開発が行われたときで、昭和30年代後期と平成17年以降です。酒津地番の地域=八王寺3については、事情はちがいます。上の引用の「新堤と日吉庄村との間にできた新田の東半分」が八王寺村=八王寺1だとして、西半分は、果たしてどこでしょうか? 

八王寺荒神宮の位置
 上の地図のは、八王寺荒神宮を示しています。中洲町誌には、「文久3(1863)年の建立にて八王寺の鎮守なり」と紹介されていますが、不思議なことに、八王寺地番でなく村の境界=鴨方往来に近い酒津地番(2740番地)=八王寺3にあります。鎮守ならば、「村」の中心にあるはずと考えます。ちなみに、周辺村の区域と神社の位置(赤丸を示します。大内の御崎神社が村の境界に近いところにありますが、荒神宮のように境内が村界に面しているわけではありません。八王寺1には、の三社神社があります。八王寺1=東八王寺の鎮守ですが、この建立が文久年間(1861-1863)とされています。ほぼ同じ時期に建てられていることが気がかりです。八王寺1 VS 八王寺2+八王寺3という対立構図を想像してしまうのは野卑でしょうか?

2つの八王寺
 江戸末期の天保国絵図には、「八王寺村」と「八王子村」の2つが同時に現れます。同時期に編纂された天保郷帳には、「八王寺村」と「日吉庄村の内八王子村」が記されています。それ以前の絵図には、八王寺または八王子のいずれか1つが現われるだけです。
 江戸末期に、この地域で新田開発が行われ新たな村ができたとは考えにくい、1つの村が分解して2つになったとも考えにくいのですが、 なぜか、人々が集まって、自然村が発生し、そこに近場の八王寺の名を借りた仮の地域が生まれたとは考えられないでしょうか? 本家と居候の構図です。再考その1にその答えを用意しました。2つの村は、実は1つの村を2人の領主が領有していたことを示していました。再考その1の領有関係で明らかにします。

西半分?
 さて、編集子の描く大胆な物語です。
 天保期以前は、八王寺1しかなく、それが天保期の八王子村で、天保期の八王寺村が八王寺2とその北側の八王寺3を併せた八王寺だったのではないかという仮説です。天保期前後に、新たに八王寺と呼ばれる村がもう1つできた、その位置は、鴨方往来が東高梁川にぶつかる直東で往来を南北にはさんだ地域たっだのではないか。つまり、八王寺荒神宮を中心にした地域で、これが西半分というわけです。新田開発でできたというより、この往来沿い(街道沿い)の村はずれに人々が集まり、咲いた賑わいが元ではないかと編集子は推測しています。村はずれに住まいを求めた人々が徐々に集まったか、街道筋の商いの賑わいが人々を呼び込んだか、天保期には、無視できない規模になっていたのではないか。
 上に示した変遷史をなぞると、八王寺1は、東の経済圏、文化圏に属していたことがうかがえます。その一方で、天保期の八王寺村=「八王寺2とその北側の八王寺3」が、南や西の経済圏、文化圏に属していたと考えれば、本家を失った居候が瓦解し、道をはさんで南北に引き裂かれて安江村、酒津村に吸収された、という物語が生まれます。つまり、明治10年の富久村への合併は、西の八王寺にとっては、本家を失う事件だったとの結論です。
 フシギの答えは、新たに追加したのではなく、富久村への合併騒ぎで安江分になっていた「八王寺2」を元に戻した、そのとき「八王寺3」は、中洲村であったため、元に戻せなかったということです。

 西半分は、村ではない酒津村八王寺という地域=3つ目の八王寺だったこと、さらに、それが消えたのは、明治22年の「明治の大合併」による村界変更(緑色の実線)だったのではないか、という新しい物語です。再考その1、その2で明らかにしていきます。

 別の角度から整理してみましょう。明治10(1877)年に、ケイト川以西に「八王寺」はあったのか、なかったのか? 編集子は、鴨方往来をはさんで南北にあったはずと考えます。「語り継ぐ中洲・中島」にある故秋田翁のつぎのような回想に支えられての推測です。
・(昭和初期頃の)八王寺地区は、行政的には酒津と八王寺と2つに別れていました。小学校に入学するのも3校にまたがっておりました
・昭和18(1943)年頃、戦争中のため、衣料切符と云うものが各戸へ配られました。八王寺では、酒津は80点、道一つへだてて南側は100点でした
 明治10(1877)年明治22(1899)年に行政的には消えた/消された八王寺が、人の心根には厳然と生き続けており、昭和10(1935)年には一部を取り返し、さらに、昭和19(1944)年には残りの一部を酒津地番のまま八王寺に組み入れる芸当をやってみせたということでしょう。この芸当には、したたかな功利的な判断があったのかも知れません。


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