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由来からは、少し逸れるかもしれませんが、旧い資料が見つかったり、新たな発見があれば、それを「これも由来」「またも由来」「も一つ由来」として追加していきます。
青年団
「八王寺覚書」の中の昭和20年・30年代を紹介した記事に「青年団活動が盛んで、荒神社の春・秋の祭礼には「千歳楽」を担いで他の地域まで出かけたり,盆踊りをしたりしていた」とあります。「これも由来」のせんざいらく(せんだいろく、千歳楽、千載楽)の説明に若者とあるのは、主に青年団員のことです。その活動の一端を偲ばせる数葉の写真が届けられました。
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↑昭和29(1954)年11/9京都平安神宮と記されています。同じ日付で清水寺と記された写真もありました。京都観光旅行だったのでしょう。 |
↑昭和30(1955)年8月盆踊りと記されています。「4組渡辺教会所と八木様との間の空き地」で催されています。盆踊りのための広い空間を確保できなくて、さまざまな場所を借りて実施されていたようです。 |
部分的には、「さらに由来」で考証したのですが、八王寺と倉敷を結ぶ道路についてです。かつて、府懸道倉敷西阿知線、県道金光船穂倉敷線、県道倉敷金光線、県道倉敷笠岡線と呼ばれていた道路の一部です。明治32年の陸軍陸地測量部の地図では、ほぼ現在の位置、つまり蟇股交差点を起点に、西中学校の北を通って、川西町に至るルートにありますが、明治18年の岡山三国地図では、八王寺側の起点は、少なくとも蟇股より西にあったことが分かります。それが、備前用水と鴨方往来の交差する地点のように描かれたのは、1706(宝永2)年の都宇窪屋郡拾ヶ村大絵図です。1837(天保8)年、高梁川(東大川西大川)の図(酒津村全域地図)では、蟇股のように見えますが、同時期の酒津村八王寺分絵図には、備前用水と鴨方往来の交差する地点であることが明示されています。祇園神社が、一見表通りから奥まった位置にあるフシギは、これで納得できます。
1706(宝永2)年、都宇窪屋郡拾ヶ村大絵図 |
1830-43(天保)年、酒津村八王寺分絵図 |
1885(明治18)年、岡山県三国地図 |
新説!名前の由来・「はしおうじ」から「はちおうじ」
2014年11月末、大内(おおち)のN氏から、八王寺あれこれ編集者に連絡がありました。氏は、数年がかりで、法務局に通い、倉敷市全域の字(あざ)を精力的に、かつ根気よく特定されています。その成果を拝見させていただき、八王寺あれこれについて一定の評価と多くの示唆をいただきました。以下は、氏の説です。
まず、おおちについてです。酒津貯水池の東にほぼ全体が墓地になっている小山(その名も小山といいます)という字があります、その南に王子(おうじ)という字があります。この王子は酒津分です。その南には王子掛(おうじがかり)という字があります。ここは大内分です。もともと、この一帯を王子と呼んでおり、それは大内の南端あたりまで広がっていたのではないか、その王子(おうじ)が大内(おおち)に変化したとの推量です。
さらに、王子は八王寺の南端まで広がっていたので、端っこの王子から「はしおうじ」と名付けられたとも主張されています。興味深い説です。
王子や王子掛については、備中誌の酒津の条(明治期の翻刻41頁、一部の新漢字、ふりがな、××の伏字は編集者)にある下記のような記述をもとに、その由来を推論されています。
若一王子権現(にゃくいちおうじごんげん)叢祠
祭神熊野権現にて早玉男(はやたまお、速玉男とも)神 本地阿弥陀仏 両所 権現は薬師観音也
本社八間四間 釣殿一間ニ二間 前殿四間ニ二間 麓ニ石鳥居
此村天正十二年の新開地にて何れより移せしや、昔は山の下に社有、大水に流れけ
るを××取上けて今の地に祭るといふ、古しへは神田も有しと云、今大内村に其名
残れり、此宮の神体仏像なるを忌みてや神人等近世是を捨て、今は丸き石を内陣に納むと云へり
つまり、王子宮があった辺りが字王子、流出した社が引っ掛かった辺りを字王子掛と呼んでいるのではないかと考えられています.
酒津-大内-八王寺近辺の字 地理と歴史>再考その1で採り上げた八王寺周辺字限図より王子の範囲が東に広がっています(N氏特定) |
酒津-大内-八王寺の現在の土地区分 |
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