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~天正開発 江戸期 明治期~ 再考その1 再考その2 再考むすび
八王寺を中心にした、周辺村の変遷史 、さらに、再考に伴なって用意した(修正)周辺村の変遷史 を併せて参照ください。

再考むすび

 地理と歴史>明治期~では、八王寺村(103石)について、その位置を特定することが難しい(たとえば、天保国絵図では、かなり北よりに描かれている)ことを指摘しました。それでも、現在の八王寺町内会が組織されている地域に(少し強引に)相当するとして、それがどのように改廃され、再興していったかを物語にしました。
   ところが、・・・
 再考むすびは、再考その1、再考その2のまとめです。再考その1、再考その2では、史実や推論が資料集のように提示されていますので、結論が捉えにくくなっています。八王寺の起源、消失、再興に絞って、年表にまとめました。さらに、地図上に表した八王寺周りの境界の推移もあわせて参照ください。

天正~江戸期


天正年間
(1573-1591)
この周りで盛んに開発が行われます。
慶長年間
(1596-1614)
倉敷川が堰きとめられて、東高梁川の新堤と日吉庄村の間にできた新田の東半分に、103石の八王寺村が生まれます。村は、岡山藩領となり、のちに生坂の岡山新田藩領となります。このとき、西半分が酒津村八王寺となったと推測します。酒津村八王寺の起源です。
元和年間
(1615-1623)
渋江川が堰きとめられて、生まれた新田の一部が八王寺村の村域に加えられます。これが、日吉庄村の内八王子村で、すでに日吉庄村を領有していた摂津溝杭長谷川氏の所領となります。
2つの八王寺(子)村は、入組んでいたようです。開発史上は別の村、徴税単位としても別の村として扱われいますが、地理的には、同一村を指していたのだろうと考えます。1つの村の別な顔というわけです。1876(明治9)年の飛地編入の様子が、その証左です。

明治期


1877(明治10)年八王寺村、日吉村、川入村、大内村が合併して、富久村を作ります。おそらく、この合併による村界の変更はなかったように思います。
1899(明治22)年酒津村、水江村、中島村が合併して中洲村(すでに三村聨合村として実質的に合併済みだったのですが)、富久村を西端にして東の福島村までが合併して万寿村、安江村を北端にして南の福井村までが合併して大市村が、それぞれできます(明治の大合併)。このとき、大幅な村界の変更がありました。字の境にあった村界を、より明示的な道路や川(用水)に移動させたようです。合併前の安江村と酒津村の村界が、北に動いて鴨方往来の上に敷かれます。同じく合併前の富久村と酒津村の村界が、西に動いてケイト川の上に敷かれます。酒津村八王寺の南分の消失です。
鴨方往来の上に引かれた村界は、酒津村八王寺のコミュニティを破壊したはずです。反対の声は多かったと思いますが、何らかの緩和措置がとられたのでは?と推察します。その1つが、小学校区の選択です。「村界を跨いだ小学校に通っていた」という多くの証言に現れています。逆に、このような措置が、酒津村八王寺の記憶を確かなものにしたように思います。

昭和期


1927(昭和2)年すでに大市村と葦高村は合併して大高村になっていましたが、それと、万寿村、倉敷町が合併して、倉敷町となります。
1928(昭和3)年倉敷町は、市制を施行し、倉敷市になります。
1935(昭和10)年倉敷市は、町名町界変更を施行します。東八王寺の大字八王寺を八王寺町に改称します。このとき、酒津村八王寺の記憶に基づいて、大字安江分になっていた大道南の大部分や大道南堤外の字を八王寺町に改称します。さらに、もともと大字安江分の北川、北畑、上開の字をも八王寺町に改称していますが、その地域までコミュニティが広がっていたのでしょう。酒津村八王寺の南分の再興です。
1944(昭和19)年すでに中洲村は中洲町になっていますが、倉敷市と合併します。これで、酒津村八王寺の北分と南分が晴れて1つになるはずでした。、酒津村八王寺の記憶に基づけば、北分の大道北や大道北堤外の字は、八王寺町と改称されるはずですが、なぜか、大字酒津のままでした。
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