トップ 空中写真 名前の由来 地理と歴史 古地図絵図 八王子? 他の地誌 編集後記 キッズ八王寺 町内会
~天正開発 江戸期 明治期~ 再考その1 再考その2 再考むすび

八王寺を中心にした、周辺村の変遷史 を併せて参照ください。

江戸期

 江戸期には、幕府の命で、慶長・正保・元禄・天保の4回、全国規模で国ごとの地図=国絵図が作成されました。元禄と天保は入手できましたが、慶長と正保は入手できていません。慶長国絵図の改訂版である寛永および貞享の国絵図が入手できました。これらの国絵図を八王寺周りで見てみましょう。

寛永の頃 1624~43(寛永1~20)年
 寛永の国絵図です。慶長国絵図の改訂版と伝えられています。開発から10数年後、間もない頃のようすです。八王寺村は、鴨方街道から北に大きく離れたところにあります。それにしても、北側の隣村が古地村や黒田村になっています、ずいぶん遠くの村がすぐ近くにあるように描かれています。その間に村はなかったのでしょうか? あるいは、省略されているのかもしれません、八王寺村は、いまよりもっと北にあったのかも? 酒津、安江、日吉庄の各村との位置関係は、まずまずのようです。
貞享の頃 1684~87(貞享1~4)年
 寛永国絵図からは、4,50年経っています。八王寺村は、明らかに鴨方街道に沿うようにあります。八王寺の東に、十明寺(村とはなっていません)という地名が現れます(後の小字「十明」かもしれません)。上酒津村もあります。
元禄の頃 1688~1703(元禄1~16)年
 元禄国絵図は、元禄9(1696)年、その作成が命じられ、同15(1702)年までにほぼ全国の分が完成したといわれています。八王寺が開発されてから、約90年後です。八王寺村は、鴨方街道と東高梁川に沿うように描かれています。
天保の頃 1830~43(天保1~14)年
 2つの八王寺(子)村が現れます。1つは、寛永国絵図とほぼ同じ位置に「八王寺村」が、もう1つは、貞享および元禄国絵図とほぼ同じ位置の街道沿いに「八王子村」が描かれています。天保郷帳によれば、八王寺村は独立村で、八王子村は日吉庄村の枝村のようです。
嘉永の頃 1848~53(嘉永1~6)年
 高梁川東西用水組合90周年記念誌には、「寛文4(1664)年から天保5(1834)年に至る170年間に36回の洪水があり、5年弱に1回程度の水害を被っている。記録の喪失などを考慮すると2年または3年に一度は、洪水の氾濫があったものと推測できる」とあります。その後ですが、嘉永3(1850)年の東高梁川の安江、四十瀬の堤防決壊による大洪水は、甚大なものだったようです。この大洪水を記録した絵図が数枚、描かれています。そのうち、2枚を入手できました。東高梁川が安江・四十瀬付近で決壊した様子や、岡山市の内尾まで水が及んだ様子が見られます。浸水は、八王寺や日吉までで、大内や川入は被害を免れたようです。
 帯江村史は、「嘉永3(1850)年。正月に日食。異国より浦賀へ大船が来たと言う噂がある。5月から6月にかけて毎日雨が続く。6月始め3日間大水。(略)倉敷の町家は軒切り水となり、これより天城辺へ抜け、元海の如くなる。田畑の跡を船にて通った。およそ20日間水が湛えられた。河口あたりは埋もれておよそ2里の間、川が無くなった。」と伝えています。
 また同史ではこのほかに次の3洪水をあげています。
●慶長19(1614)年、酒津川(高梁川)本堤決壊。中帯江の前に淵が出来て、丸池と言った。備中寅年の大洪水という。
●承応3(1654)年、成羽水という。備前備中両国洪水となる。帯江村のうち小瀬戸に大水侵入。丸池淵となる。
●延宝元(1673)年5月19日。八王子村700間決壊し大洪水。
 

~天正開発 江戸期 明治期~ 再考その1 再考その2 再考むすび

Copyright(C) 2012,2013 八王寺町内会

inserted by FC2 system