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八王寺を中心にした、周辺村の変遷史 、さらに、再考に伴なって用意した(修正)周辺村の変遷史 を併せて参照ください。

再考その1

 地理と歴史>明治期~では、八王寺村(103石)について、その位置を特定することが難しい(たとえば、天保国絵図では、かなり北よりに描かれている)ことを指摘しました。それでも、現在の八王寺町内会が組織されている地域に(少し強引に)相当するとして、それがどのように改廃され、再興していったかを物語にしました。
   ところが、・・・
 再考その1は、物語を再考せざるをえなかった背景について触れます、さらに、新たな資料を整理し、それを読み解いていきます。

さらにもう1つの八王寺


 江戸期の後半から明治にかけての2つの八王寺村と現在の2つの地域(東八王寺町内会と八王寺町内会)に拘泥するあまり、地誌の語っている重要なかけらを見落としていたようです。

東分と西分、西分の分解
 かつてケイト川の東西に2つの八王寺村があり、東分(東八王寺町内会分)の本家と西分(八王寺町内会分)の分家を仮定して物語を作りました。明治10年の東分の富久村への合併で、本家の東分は大字八王寺として残り、分家の西分は、鴨方街道の南は安江村に、北は酒津村に引き裂かれ、分解したと推論したのです。そして、昭和10年に、分解した1部を安江(村)から取り返したという筋立てです。残念ながら、分解した事由を明らかすることはできませんでした。
→この再考では、編集子の立てた仮説=西分の本家vs東分の分家の存在や「西分が南北に分解」が、そもそもなかったのではないかと疑っています。


2つの八王寺と、さらに3つ目の八王寺
 2つの八王寺村の存在は、天保国絵図や天保郷帳から知られています。日吉庄村内八王子村(154石)と八王寺村(103石)です。日吉庄村内八王子村(154石)は、現在の東八王寺町内会が組織されている地域であるらしいことは推測できますが、八王寺村(103石)は、八王寺町内会が組織されている地域に果たして相当するかというと断定できません。編集子は、あえて、それを八王寺西分として重ねてみたのです。
→この再考では、2つの八王寺とは、2つの入り組んだ領有による村のことであって、村としては1つであったことを明らかにします、また、ケイト川の西に、3つ目の八王寺を考えます。



新たな発見と資料の追加


 1つは、天保期前後の制作と推測される酒津村絵図の部分図の未完成品です。これは、他の地誌では採りあげられたことのない(?)新しい資料です。もう1つは、「語り継ぐ中洲・中島」にも掲げられていた、天保期の高梁川の図の別版です。さらに、村界を探すために有用であるとして、明治18年の岡山県三国地図と字限図(あざきりず)を入手しました。

酒津村八王寺分絵図
 ところが、不明だった八王寺村の位置を特定できそうな村絵図が発見されたのです。同時に発見されたものや次項の酒津村全域絵図とを参照し、さらに、表紙に、明らかに後代の加筆ですが「八王寺」とペン書きされていることから、仮に、a.酒津村八王寺分絵図と呼ぶことにします。北端は酒津公園あたり(天保国絵図の街道筋から、「大きく北側にはずれたところに八王寺村」の説明と符合します)、南端は鴨方往来の直南「大道南」の小字です。西は東高梁川の堤、東は、ケイト川か、あるいは、それより田畑1,2枚東に寄っています。大きさは224cm×84cm(折りたたんだ大きさは21cm×36cm)で、地目ごとに色分けされています。同時に発見されたものが、b~d、f~gです。b、cは、aと同様に、地目ごとの色分けと、堤上の藪地の所有者と面積が記されています。dは、色分けされたすべての地目に所有者、田畑の等級、面積が記入されていますが、それと比較するとa、b、cは移写中の未完成品と推定できます。f、gには、字と地番、所有者、田畑の等級、面積、石高が墨書きされています。そこには弘化3(1846)年移写 白賁館と記されています。白賁館は、梶谷止信(坦齋)の屋号です。

a.酒津村八王寺分絵図未完成品(制作年不明)
b.酒津村西酒津分(酒津本村分)絵図未完成品(制作年不明) ← f.酒津本村石高図(弘化3年(1846)移写)
c.酒津村上酒津分絵図未完成品(制作年不明) ← g.上酒津石高図(弘化3年(1846)移写)
d.酒津村小黒田分絵図完成品 (制作年不明)
e.酒津村木屋酒津分(東酒津分)図 未発見

酒津村全域絵図
 古地図絵図>江戸期で掲げた「1837(天保8)年、高梁川(東大川西大川)の図」の別版も発見されました。絵図をあらためて検討したところ、酒津村全域を描いた絵図のようなので、あらためて仮に酒津村全域絵図と命名します。大きさは、91cm×64cmの1枚ものです。これを見ると、上の酒津村絵図群には、木屋酒津分=東酒津分が欠けていることがわかります。右下の不鮮明だった「日吉庄村内八王子」もはっきり認められます。原本は梶谷之信(止信の父君)の作で、それを1837(天保8)年、梶谷喜右衛門が写記との記述が見えます。

岡山県三国地図
 1885(明治18)年の岡山県三国地図の部分図です。酒津村、安江村、富久村の境界が特定できます。すでに、八王寺村は富久村に合併されています。古地図絵図>明治期~でl1899(明治32年)陸軍陸地測量部の地図を示しましたが、それより14年前のものです、この間に大幅な村合併が行われていますので、江戸後期から明治の半ばまでの村界を反映した貴重な資料でしょう。

字限図
 八王寺周辺字限図です。、字(字名)を登記簿から都市計画図に転写したものです。提供元からは、確度は保証できないとのコメントがついています。酒津村八王寺分絵図の東の村界は、字に沿っていることがわかります。現在はケイト川が村界(大字の境界)になっていますが、それは、明治の半ば以降のことのようです。さらに、南の村界も大道南の字に沿っていることがわかります。

領有関係


 「八王寺あれこれ」では、村の領有については、あまり触れないできましたが、3つ目の八王寺を考えるには、触れないわけにはいかなくなりました。この地域には、備前岡山藩の生坂支藩=岡山新田藩(明治になって生坂藩)の領地と旗本攝津溝杭(みぞくい、溝咋とも)長谷川氏の領地が混在していました。1つの村には1つの領主が原則ですが、複数の領主の領有もあったようです(相給=あいきゅう、と呼びます)。八王寺村はその例です。日吉庄村内八王子村(154石)は、旗本攝津溝杭長谷川氏領で、八王寺村(103石)は、生坂藩領です。

角川日本地名大辞典
 「慶長年間、東高梁川の分流倉敷川が酒津村で締め切られて新田開発が進み、この造成された新田地域東半分103石余の地をもって成立。同地は岡山藩領となり。明治元年からは生坂藩領。元和2年渋江川が東高梁川の分流点で締め切られて開発され、この造成された新田地域の一部も村域に加えられた。同地は隣村日吉庄村の領主旗本長谷川氏の知行所となる」と八王寺村の成立が説明されています。

備陽記
 領有関係でみると、日吉庄村内八王子村は、真北にあった日吉庄村内大内村、その親村である日吉庄村とともに旗本攝津溝杭長谷川領、一方で、八王寺村は川入村とともに備前岡山藩の生坂支藩=岡山新田藩(明治になって生坂藩)領でした。2つの領有は「ことごとく入組」と説明されています。

倉敷市史(近世編/近世の村/-領主と村高-)
 生坂藩領の八王寺村、旗本摂津溝杭長谷川領の八王寺村、大内村および日吉庄村の石高をいくつかの資料からながめてみますと、4つの村の総石高は江戸~明治初期を通じて一定で660石となっています。いずれの村で石高を算入するかの違いが見てとれます。


領有分布図
 倉敷市史(近世編/近世の村/-領主と村高-)の付録に「倉敷市域とその周辺の領有分布図(幕末の状況)」があります。その中からの抜粋です。左図は、八王寺周りだけをさらに抜粋したものです。 ①は幕府領(天領)、④は生坂藩領、⑳は旗本摂津溝杭長谷川領です。八王寺の④⑳は区分できなかった、さらに⑳の大内とも区分できなったということでしょうか。

あらためて地誌を整理


 いくつかの地誌の中に、「酒津村に枝村八王寺」、「酒津の内八王寺」、「東酒津村八王寺」などの表現が散見されます。八王寺村との区別が付きかねて、気になりながら、半ば無視した案件です。酒津村の南端に鴨方往来をはさんで八王寺という名を付したエリアがあったのでは? これが3つ目の八王寺です。この村ではない「八王寺」をどう読み解いていくか? 村でないだけに明示的に、正史には現れてきません、何かの説明の中に、垣間見えるだけです。

中洲町誌
 酒津には、上酒津、木屋、十明、八王寺、安江の枝村があったとされています。八王寺荒神社のくだりでは、「本社は酒津の内八王寺にあり、祭神は大国主神、経津主命、少名彦名命にして、祭日は九月二十九日、三十日なり、文久3年5月の建立にして八王寺の鎮守なり」と記されています。

正保郷帳
 八王寺村には、枝村大内村があり、酒津村には、上酒津、小屋、十明の3つの枝村があったと記されています。

天保郷帳
 独立村として、八王寺村があり、日吉庄村には、八王子村と大内村の枝村があったと記されています。

備中誌
 水江の条(166/250)には、「水江の渡り 成羽川の下流なり水江川平水廣サ38間 堤より堤迄東酒津村八王寺へわたる」とあります。

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